山陰・鳥取県 境港市(さかいみなとし)は鬼太郎をはじめとする妖怪と、サバ、アジ、カニなどのお魚が いっぱいのまち
【市】14.景山家墓地●発行・問● 境港市教育委員会 TEL 0859-44-2111
市指定文化財
14.景山家墓地 所在地 境港市中野町
指 定 昭和62年3月25日 種 別 史跡 所有者 景山孝正 景山家墓地は、正福寺の北側にある。中野村(境港市中野町)の景山家は、江戸後期寛政年間以降、代々医家であった。この墓地には、景山家歴代の墓がある。 景山家の初代景山立碩は、京の木島氏に医を学び、すぐれた医術の名声は伯耆・出雲に聞こえていた。師の顧命によって木島姓を名乗り、木島立碩と称し、文政3年(1820)63歳で没した(墓誌)。 2代景山粛は、初代の甥に当たり、はじめ木島粛または木島立碩と称した。文化年間に京の服部大方に学び、帰郷して文政の頃より医家のかたわら私塾を開いて子弟に教え、文久2年(1862)5月3日に没した。戒名「僲(せん)岳院大圓高徳居士」。 特筆されることは、景山粛の私塾に学んだ人たちの中から幕末・明治維新に多くの志士が輩出したことである。京の三条家に仕えた富田織部、「名和氏紀事」を著わした門脇重綾、二十士事件の一人佐善元立、京で活動した今小路範成、杵築の国造家に仕え、出雲では希少な勤王家であった松本古堂等があげられる。さらにまた景山粛は「伯耆志」の編者としても知られ、幕末の郷土史におよぼした影響は大きい。 3代景山龍造は、江戸の梁川星厳に学び、京の三条実万に仕え、のち鳥取藩の学館教授となった。景山塾出身の志士たちとともに、激動の維新史に大きな足跡を残し、明治5年東京で没した。 4代景山道遠は、明治5年境郷校開設の時初代校長を務め、明治8年皇漢所勤務、明治10年京都府師範学校に転じ、12年に帰郷、明治45年に没した。 ここ景山家墓地には、代々医業と教育に尽くし、比類のない業績を残した英賢たちが眠っている。
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