山陰・鳥取県 境港市(さかいみなとし)は鬼太郎をはじめとする妖怪と、サバ、アジ、カニなどのお魚が いっぱいのまち

【市】2.渡先賢碑(わたりせんけんひ)

発行 境港市教育委員会 TEL 0859-44-2111
 市指定文化財

 2.渡先賢碑  (わたりせんけんひ)

門脇重綾之墓 所在地  境港市
 指 定  昭和53年12月12日
 種 別  無形文化財(工芸技術)
 所有者  弓浜絣保存会
 

 渡公民館と県営住宅団地の間に、緑地公園がある。ここには大正12年から昭和48年まで渡小学校の前庭であった旧地である。この地に渡町ゆかりの4人の先賢(昔の賢人)の碑が立ち並んでいる。この地は、郷土の歴史と深くつながる由緒ある地である。
 この碑がここにある由来は昭和6年に、渡村村長松本偵治により教育は地域発展の原動力であるとの信念から、村内各所に建てられていた頌徳碑や記念碑を小学校の前庭に移して教育の指針としたのがこの碑郡である。
 これら一群の碑は50年にわたって、小学校児童に無言の教訓を垂れてきた。


門脇重綾之墓(左の写真)
老農松本兵吉君記念碑(右下の写真)

老農松本兵吉君記念碑【故教部大丞正五門脇重綾之墓(旧碑の刻字)】
 (門脇重綾については、門脇重綾遺品、日御崎神社の項参照)
 この碑はもと東京青山の墓地に有った墓碑であるが、昭和8年宮内省の許可を得てここに移し、碑面を「故教部大丞・従四位 門脇重綾頌徳碑」と陽刻した銅板で覆い、頌徳碑とし て改められた。しかしいつしか銅板が剥落した(旧碑の刻字が現れているのはそのためである)。この事を悲しんで、昭和58年渡小学校同窓会では、隣接して門脇重綾の業績を書いた説明板を建ててその由来を明らかにしている。
 碑陰の撰文は友人宮原積、書は明治書檀の第一人者巌谷一六が筆をとり、重綾の生涯を今に伝えている。

【老農松本兵吉君紀念碑】
 松本兵吉(天保8〜明治21)は、渡村下大沢で生まれた。水田が少ない弓ヶ浜半島では、麦は甘藷とともに大切な主食であった。そのため、松本兵吉は常に麦の改良に心を砕いていた。明治8年(1875)旅の途中で、今まで見たことのない麦を発見した。兵吉はその種を持ち帰って試験栽培を重ね、新品種の育種に成功した。人々は大沢麦としてこれを歓迎、この地方の農業発展に大きく貢献した。
 明治32年(1899)渡村実業界は、紀念碑を建て碑面にその業績を刻して追頌した。
【老農浜田治郎吉記念碑】
 浜田治郎吉(文政7年〜明治35)は森岡村で生まれた。江戸時代から明治にかけて弓が浜半島一帯は綿の栽培が盛んであった。しかし綿作は天候に支配され易く、収穫に不安が多かった。治郎吉は綿作の改良を志し、森岡綿と呼ばれる良質の育種に成功、綿の増産に貢献した。明治23年近村の農民はこぞって記念碑を贈ってその実績を顕彰した。

【竹処渡辺先生碣】
 渡辺竹処(天保10〜明治18)は、五千石村生田家に生まれ、渡辺家を継いだ。
 漢方医学と西洋医学を学び、明治3年(1870)鳥取藩医学寮に勤めた。また、明治初期の山陰医学会に功労があった。 一方漢詩人として有名であり、渡村で診療のかたわら私塾を開き、有為な人材を育ててきた。
 明治20年(1887)門弟は頌徳碑を建ててその徳に報いた。碑面は日下部鳴鶴の筆になり、碑陰の撰文は藤沢南岳、書は瀧良が筆をとり、竹処の人望と学殖の深さを表している。
 それぞれの碑に銘文があり、郷土の先覚的偉人の業績を伝える一面、文学碑として価値高い存在である。

境港市の文化財GUIDE BOOK より

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